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日本相撲甚句会

創始者の紹介

大相撲 元三役格 呼出し永男 東京都出身 二所ノ関部屋
本名 福田永昌(ふくだのりまさ)

創始者 永男

昭和5年3月19日 東京都墨田区向島にて生まれる

永男は長男としての責任感の強い人間でした。
昭和21年に父親が相撲茶屋を手伝っていた関係で紹介があり二所ノ関部屋に入門します。
両親は小さいのですが永男は175cmと当時では大きい体をしていました。
ですから親方からは相撲取りにと土俵に上がされた事もあったそうです。ですが運動はさっぱり駄目で、空きがあった呼出しとして相撲界に従事する事になります。
ロマンチストで、やさしい性格の為、いつも笑顔でお客様に接し、場所中お茶屋さんと間違われても、やさしく道案内をする人でした。
相撲界は力の世界です。力の強い人が一番強い。相撲界の階級は番付の順番になります。
そして全てが男性。力が弱く酒も飲めなかった永男が相撲界で自分の存在をゆるぎないものにするには
呼出しとしてのプライドを持つことだったのだと思います。
腹から声をだし、誰よりも太鼓の練習をし、誰よりも上手になる。拍子木の音を響かせる。
土俵造りは永年間責任者を務め、各地の土を握り、土俵に適した土を捜し、水の量を加減し、俵を作ってきました。
日本全国を汗しながら巡り、唯一の心の安らぎは詩や俳句を書き留める事でした。

永男 永男

昭和31年同部屋である初代玉乃海に俳句などを書き連ねた日記を見られ、「わしの名前の入った郷土の甚句を作れ」と言われ初めての甚句作詞をします。初めて作った作詞の反響は大きく、お客様の割れんばかりの拍手に感動したと後の出版した「じんく有情」に記されています。それ依頼、巡業に行った先々で、その土地の郷土と相撲取りを盛り込んだ名所甚句の作詞を本格的に始めるようになります。
若乃花一代記 昭和38年 入門時同じ釜の飯を共にした第45代横綱若乃花の引退式前日、部屋の若頭に頼まれ【若乃花一代記】と題する甚句を作詞。「風雪十年土俵の上でよ〜」で始まるこの甚句がきっかけで、当時NHKで相撲解説をしていた北出アナウンサーの目に留まり、その後NHK放送の始まりに数年間相撲甚句が流れるようになり全国の視聴者の耳に届くことになります。それからは大相撲の陰の立役者として次々と白羽の矢が立ちはじめます。
昭和42年太鼓の名手としても知られていた永男にNHKより依頼があり、30年にわたり本場所のテレビが始まる最初のふれ太鼓、終わりの跳ね太鼓が放送されました。
昭和54年には相撲取りの士気を高めるために「錬成歌」を作ることになり、日本相撲協会理事会に於いて満場一致で決定。今でも新弟子は【相撲協会錬成歌】を練習し、この唄を知らないお相撲さんはおりません。

相撲協会錬成歌

昭和61年には愛唱者の為の会が増え全国相撲甚句の会と称し、一般の方々を対象とした相撲甚句愛唱者の為の全国大会を開催し始め、 昭和63年1月より読売新聞社発行(大相撲)の月刊誌中に【つれずれなるままに】を連載。
相撲甚句有情 平成6年にベースボールマガジン社からの依頼で相撲の裏方から見る相撲のよもやま話と泣き笑い人生を描いた【相撲甚句有情】を出版。
平成7年3月場所を以って49年間在籍の日本相撲協会を定年退職。
永男の作った相撲甚句をのど自慢の三郎さんが唄う。国錦さんが唄う。大納川さんが唄う。
大至さんが唄う。床寿さんが唄う・・・・・。
のど自慢の皆さんが永男の作った甚句を唄い、相撲好きに知れ渡ってきました。
【呼出し】という相撲界の中で縁の下の力持ち的な存在は、相撲甚句の作詞に於いても縁の下で、陰からそっと人が喜ぶのを見て満足する。純粋に相撲甚句を世に広め、多くの人を喜ばすことに人生を捧げてまいりました。
平成24年4月14日 創設者 福田永昌 心不全により逝去 享年82歳

永男 永男
永男
永男 甚句 永男 甚句

東京下町Sエリア情報ページ 「下町探偵団」より

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