相撲甚句の歴史
甚句の起源は、元禄時代にはやった<甚九郎節>から出たもの、<地ン句>となまったもの、神に捧げるうたの意味で<神供>のあて字とする説などがあるが定説はない。
甚句の種類には、仕事うた(山甚句、ね草刈り甚句)、盆踊りうた(盆踊り甚句)、騒ぎうた(酒宴の席の騒ぎ甚句)などがあり、このほか甚句とは呼ばれなくても七五調の甚句の形式を備えているものを含めると、日本の民謡の約半数を占めている。
甚句は江戸末期から明治にかけて、流行歌として定着した。
角力甚句は、幕末から明治にかけて花柳界で流行した本調子甚句、二上がり甚句を相撲取りがお座敷で覚えて巡業ではやらせたもので、この角力甚句から、名古屋甚句、熊本甚句(おてもやん)、会津磐梯山、隠岐の島の相撲取り節、熊本のどっこいせ節(一名角力取り節)などが出ている。
地方の神社などで行われる祭礼では唄にあわせて相撲踊りが行われたりする、また、土俵の上で攻める型、守る型(相撲の四十八手)を見せながら甚句を歌っていたが今ではこの形は行われていない。
相撲甚句は単に相撲取りが花相撲の土俵で歌うだけのものではなく、日本各地の民謡と深いかかわりの中から生まれ、歌われ、これからも後世の人々に歌い継がれていく民族の歌の性格をもつものであるといえる。
相撲甚句の歴史
◎「相撲甚句は踊りから」
相撲甚句といえばドスコイ。ドスコイ、私が入った時にはもうそうなっていましたが、戦前はドッコイ、ドッコイだったんです、秋田民謡の酒屋唄にそんなのがあります。
これがね「アー、ドスコイ。ドスコイ」
こうなったのは、私は芸者がはやらしたんじゃないかと思っているんですけどね。出所は相撲内部よりも、粋筋の方でね、二上がり甚句の。
「トコ、ドスコイドスコイ」
いつの間にかお相撲さんまでこううたうようになっちゃったと、ね、私はそんなふうに考えています。
でね、昔は甚句そのものを聞かせるというよりも、相撲四十八手。この型をみんなに披露する意味もあったようですね。あの、長崎、宮城、それから越後周辺、ここらあたりは今でも女相撲が盛んなんですが。そこで女力士が土俵の上で輪になって、ね。
「ドスコイ、ドスコイ」
やってるでしょう。見てみますとね、踊りなんです。ただ面白いのは、その一つ一つの仕草が、よく見ると四十八手の型になっているんです。真ん中に唄い手さんがいて、踊り手の方は突っ張り、押し、四股の型までやってますよ。甚句は長崎なら「長崎名所」を、ドスコイ、ドスコイとやってんですけどね。
こうゆうのを見ると、昔の甚句は踊りが主流だったんだな、と素直に納得できます。それがいつ頃からか、前へ歩いて、後ろに下がって、パンパンと手を打つぐらいで、ね、
今の相撲甚句はそれだけ崩れちゃったんですね。四十八手の型はおろか、踊りにもなっていません。
踊りよりも、ホラ、ノド自慢。いつしか歌が主流になったと。
これが今の甚句だと思います。
呼び出し 永男
日本相撲甚句会の沿革
創設から現在まで
創設者 |
大相撲 元三役格呼び出し永男(本名 福田永昌) |
昭和31年 |
同部屋(二所の関部屋)初代玉乃海に俳句などを書き連ねた日記を見られ「わしの名前の入った甚句を作れ」と言われたのがきっかけで相撲甚句の作詞を始める。 |
昭和38年 |
第45代横綱若乃花の引退相撲の甚句を作ったのがきっかけで、甚句作詞で名を知られ数々のお相撲さんの甚句、各地方のゆかりの地にまつわる甚句などを手掛けるようになった。 |
昭和43年 |
相撲甚句が認知されるようになり、愛好者の為の甚句会を日本各地に作り指導普及に努める。 |
昭和54年 |
日本相撲協会 新弟子教習所に掲げてある「日本相撲協会錬成歌」を作詞。 |
昭和61年 |
愛好者の為の会が増え全国相撲甚句の会を旗揚げ、全国大会を開催し始める。 |
平成7年 |
3月場所を以って日本相撲協会を定年退職
日本相撲甚句会を設立 本部を現在の両国の地に置く。
会長を務め、全国の会員の普及に努める傍ら、大相撲の伝統文化の継承と共にボランティアなどの福祉活動をする。 |
平成24年 |
4月14日 創設者 福田永昌 心不全による逝去
6月臨時総会に於いて満場一致で 福田永昌 長女 飯田三千代が後継となり、永男の遺志を受け継ぐ。 |